2015.5.9  ~ VF15募集のご案内より

拝啓、緑が濃くなってきました。みなさまその後いかがお過ごしでしょうか。

 

春先に食べ、小さな鉢に植えた柑橘の種が発芽しました。それらはいずれ訪れるアゲハの幼虫たちの食料になります。
そして、アゲハの幼虫をシジュウカラが啄みに来ます。自然界の動植物は生存をかけて闘い続けているのですが、
日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使
は、国際紛争を解決する手段としては、永久に、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸空海軍その他の
戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。のであります。

 


2013.1.12   ~ 今年の賀状から

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

小さな手触りが必要になるときがあります。あの日以来、被災の日々は続いています。程度の差こそあれ、
誰もが毎日の生活の中にも「こころ」にも、少なからぬ不安を抱いています。この状況を乗り越え次の世代
へ希望を繋いでゆくことは、私達の喫緊の課題です。求められるのは、時間はかかりますが、地球が回復
しようとしている自然の声に呼応することだと思います。そして時間の経過の中の揺らぎを押しとどめて
しまわない為に、やわらかく小さな手触りが必要です。我が工房にあっては、昆虫や野鳥の来訪、玄関先
の植物の萌芽が、向かうべき方向を示してくれているように思えます。

 

 

 

良い年になりますように。


2012.4.6 久しぶりのノート更新です。

2012年2月、詩人谷川俊太郎は新聞紙上で、震災後のいま「詩とは何か」との問いに応えています。

読んだ方も多いと思います。

震災後も、普段のように詩を書いていく。今までの生活を地道に続けるのが大事だと思っています。

・・・・震災後の世界で、詩がそれほど役に立つとは思っていない。詩は無駄なもの、役立たずの

言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。震災後、みんなが言葉を求めていると聞い

て意外。僕の作品を読んだ人が力づけられたと聞くと、うれしいですが。詩という言語のエネルギ

ーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、

世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微小な力が繊細に働いている

から。古典は長い年月をかけ、その微小な力で人間を変えてきた。宇宙を含めた全存在は、人類が

言語を生み出す何億年も前からあった。我々はその言語以前のものを体内にちゃんと持っている。

赤ん坊も恐竜も自然も言語以前の世界。詩を作る欲求とは言語以前のものに言語で触れたい、とい

うこと。・・・・

さて、言語とは別の回路である美術は、いま「・・とは」と問われたら、何を示せるのだろうか。

 

 

言葉で考える。描いてみる。


2008.1.1 困った記憶(工房の賀状より)

2008年 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

2004年の暮れ、番頭田中の友人、上原祥子に勧められて『僕の叔父さん網野善彦』(中沢新一著・集英社新書)を読んだ。「飛礫の再発見」と云う項にさしかかった時、1971年秋に読んだ小説の登場人物、時枝正和と矢野恵子が私の中に蘇り、三十数年ぶりにその小説を読み直し、そのことを翌年の賀状に書こうとしたが、その時は相応しくないと思い見送った。2007年。世界中がグローバル化の中で目先の富を確保するために軍備を拡大する姿に接し、また矢野恵子に会いたくなり、3度目の未完の小説を読んだ。・・・何事の起こりしやは明らかならず、そのとき橋はたそがれてあればなり・・・高橋和巳「黄昏の橋」(昭和四十六年六月二十六日初版・筑摩書房)である。ちなみに私の投石の経験は無い。

 

匂いや気配の記憶は脳のどの辺りに保存されているのだろうか?工房の近辺は、この10年の間に目紛しい勢いで、畑が小規模な集合住宅に変貌している。道路も妙に整備され、交通量も増えている。それでもまだ春にはキャベツが香り蝶が舞う。5月中旬。気温も上がり、空気に少しずつ湿気が加わって来た頃、自転車を漕いでいると、不意にある場所の記憶が蘇って来る。熱気・磯の香・重油排ガスが入り混じった、そうだ!石垣島離島桟橋のニオイ・ケハイなのだ。もう何度も石垣島離島桟橋に立っているためなのか、そのニオイ・ケハイは確かに記憶にあり、武蔵野の空気の変化が、私をそこへ連れて行ってしまう。今年もまた無理をして八重山の海へ出かけてしまうのか。困ったものだ。日常生活の中で、理不尽な権力への飛礫は想像力に託される。想像力を支えるのは、蘇る記憶と現在への気付き・actualityだろうと想う。

 

 

 

良い年になりますように。


2007.5.22 美学校

美学校は、今年も5月の連休明けに新学期をスタートした。1969年の開口から39期目。私は1978・79年の2年間、故岡部徳三の教えを受けつつ、ほぼ毎日神保町の学校に通った。前年末にそれまでの仕事を辞め、78年1月2日に息子が生まれた。その4月からの修業だった。2年間修業に集中もしたが、よく酒ものんだ。当時からシルクスクリーン工房yは月曜日が講義日で他の日は自習。定期と弁当を持って一日10時間位作業をし、終電まで飲んでいたように思う。その頃岡部は芸大でも講師をしていた。芸大は木曜日で、夕方よく上野から神保町へ戻って?来た。「芸大の奴らは飲まないから面白くない!」などと言って、我々はまだ作業をしているのに飲みにいこうと誘うのであった。そんな岡部が93年末に最初のがんの手術を受け、代わって私が美学校での講義を受け持つことになった。以来14年、美術シーンにも変化があり、少子化もあり、新入生は減少の一途を辿っている。学校の経営は厳しいがなんとか今年も開講した。私はシルクスクリーンを覚えたいと思う人が一人でもいる限りこの講座を続けて行きたい。印刷のデジタル化が進み、シルクスクリーンは過去のものになりつつある。だが、だから、これからがおもしろいと思える。現在とこれからを生き延びるための技術としてのシルクスクリーンを開示して行く。途中入校も相談にのる。

 

 


2007.5.9 始まりました。

番頭田中が、ホームページに「松村ノート」を設定したので、これから少しずつ書いていくことにする。私はいままで、単文を原稿用紙に書いてきたので、これで少しはキーボードに慣れるかもしれない。でもまだまだブラインドで打てるわけではないので、時間の許すかぎり・・・。

 

職業を問われれば、工房経営と答える。自分で名乗ることは少ないが刷り師=プリンターと言われることもある。前から思っていたがプリンターとフリーターは、語が似ているだけじゃなくて、意味もほとんど同じだ。フリーターはプアーである。プリンターもプアーである。プアーだけど暇はある。プアーだけど志は高い。近頃の経済至上主義の常識としては、ふりーでプアーで志高く生きる人は、単なる怠け者に分類されるらしい。それでも極まれに理解し、応援してくれる人、人達がいて、その理解と応援に応えようと、「いい仕事」をめざしている。

 

プアーだけど毎年沖縄へ行く。国内線に今のような割引チケットが無かったころは、確かに沖縄行きは高くて、贅沢だった。でも今は貧乏旅行ができる。私の毎年の沖縄は、1月中旬、石垣島離島桟橋前の中村つりぐ店から石垣港基準の潮汐表を送ってもらうことから始まる。今年は宮古島北端、池間島に狙いをつけた。その北に広がる八重干瀬でのシュノーケリングが主目的だが、島の散策にも時間をさきたい。

 

1976年の最初の沖縄行から30年が過ぎ、沖縄関連の読書も増えた。「港町-魂の皮膚の破れるところ」(1981年 白水社)の中で著者飯島耕一は池間島に足を踏み入れたときのことを次のように書いている。

 

・・・さて、われわれは、池間島の小高い丘の部落へと入りこんだ。「石敢当」のところを左へ折れる道へと入って行ったのである。そこは前章でも言ったように、まるでつげ義春のマンガのような不思議な村で、世界がちょうど裏返しになったような、夢幻的な部落にわれわれはすっぽりと入りこんでいるのだった。・・・いま思ってもこの坂を下りて行った感じは夢まぼろしのようだが、実際そのときも夢中であった。未知の部落の中へ、というよりも部落の奥の方へと一歩一歩入りこんで行くなまなましい感じがあった。入っていきながら、もし魂に皮膚というものがあるならば、その皮膚が一枚一枚音立てて、ベリッベリッと破れるような気がした。われわれは今度の度の臍であり女陰である集落に近づきつつあった。ついに臍にも女陰にも達し得ぬ度が多いというのにわれわれは幸運であった。・・・

 

このとき、飯島達は、宮古島北端狩俣漁港から、渡し船で池間島へ渡っているが、1992年宮古・池間は池間大橋によって結ばれた。この橋がどのような資金で架けられたかは誰にでも想像できるだろう。橋によって島がどう変化したか、確かめてみたい。無理に結ばれた臍の緒でなければよいのだが。

 

 

今日はここまで。久利屋さんはどんな仕事にも、いつも誠実・精一杯。